昭和48年03月06日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金の神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たにである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 天地金乃神様からも恩人、氏子からも恩人といわれる程しのお方が、金光大神であると言う事です。そこで私共が、金光大神をそのような大変な、いうなら偉大なお方であるとして、どう頂きとめておるだろうか、金光大神のいわれる事に背かぬようと仰るが、金光大神はどう言う事を教え、言うておって下さるだろうか、どこをどう頂いておるかと言う事で、教祖金光大神の偉大さと言うか、絶対のものを、金光大神に感じ、初めて、成程、大恩人だなとゆう事が分かるのです。
 只日々お参りをしてお取り次を頂いて、様々なお届けそしてそれをおかげにして頂くとゆう事だけが、只恩人と言うのでは、私は勿体ないような気がする、最近それをしきりに思う。教祖金光大神の偉大さ、その教祖生神金光大神が言うておられる事、教えておられる事、金光大神の言う事に背かぬよう、と仰るがその言うておられる事の、素晴らしい事が分かり、そしてそれがおかげになって参りました時に、初めて私共成程天地金の神様からも恩人なら、私共からは尚更の大恩人である、と言う事が分かるのです。
 皆さん、どこをどう金光大神の、大恩人だと言う事を、感じておられるだろうかと、言う事ですね。昨日は、壮年会の方達の例会でした、本当にもう熱心な、信心の研修が、十二時過ぎ迄続けられました。例えばその中で、久富さんが最近合楽で、五つの願いと言う事を言われるが、一つ体の丈夫を願えと仰るから、体の丈夫を願わせてもらう、これはどうでも願わねばならないこと。
 ところがこの事をお願いさせて頂くうちに、これは体の丈夫を願わせて頂く前に、心の健全を、まず願わなければならない事に気付いた、という発表をしておられました。私は、その久富さんの発表に後に、けれども私達の心の健全というか、心が完璧というか、心が完全であると言う事は、まずなかろうとこう思う、願っても願っても、それこそ昨日の御理解じゃないですけれども、その都度そのつど心が不健全である証拠に、良くない事を思うたり、又は感じたり。
 その都度私共は、それを洗い清めるという精進を、してゆかなければならない。もう私の心は大丈夫だ、動かないものだと言う様にです、もう心そのものが健全だという所迄は、とてもとても行けそうにもないのですから。最近の例えば五つの願いというものは、これは合楽の一つの掛け声なんだ、ですから、成程心の健全を願わせてもらう、同時に体の丈夫を願わせてもらう、いや願わなければ、神様に喜んで頂く御用が出来ないもの。ですから心の健全というものを、願いぬかせて頂いて。
 心の健全が出来てその後に、健康を願うと言う事は、とてもとても、まどろしい事である。だから、どっちも出来んのだけれども、けれども、矢張り願わなければおられない、心はこのように不完全で、健全ではありませんけれども、体の丈夫を頂かせて下さい、元気のおかげを頂かせて下さい、でないと、そんなら三っ目の、真実の御用が出来ますようにという、自分自身の仕事、四つ目ですか、真実の御用、
 お百姓しておる人ならお百姓、商売してる人なら商売そのもの、その御用が出来ません、不健康であっては。もちろんその御用と言う事は、仕事と言う事ですから、いわゆる事に仕えると言う事、そういう精神で御用が出来ると言う事を、真実の御用、真実の御用が出来ます事の為にも、体の丈夫を願わなければならない、二番目の家庭の円満も、信心は家内に不和の無きが元とおっしゃる、その元の事も、いわゆる三っめであるところの、子孫繁昌家繁昌の事も、真実の御用が出来ますことのためにも、やはり願わなければおられんのである。
 ですから願っておる内に、色々その様に分からせてもらう。これは本当に体の丈夫ばっかり願うて、こういう心が不健全では、いつも病気する筈だと、心の健全を願わせてもらうと言う事も、だから一緒に含めて、願わなければなりませんけれども、やはり体の丈夫と言う事が、打ち出されておりますから、その事を矢張り繰り返し、御神前に向ったが最後、この五つの願いだけは実があろうがなかろうが、もう一つのこれは掛け声なのだから、願わにゃいけませんよと、言う様なお話をさせて頂いた事でした。
 皆さんどうでしょうか、最近五つの願いというものが、迫力を欠いでおるような感じがするんですけれども、どうでしょう。まあ、久富さんのように願っているうちにです、その願う内容の余りにも、大変な事に驚いて、これは、もっともっとその事よりもまず先に、願わなければならんものがあると、気付く事は有難いです、そして一番最後のです、神願成就、いうならばこゝでいわれておるところの、和賀心時代を創る、と言った様な、大変な願いに願いがなって参ります。
 それを私は昨日ね、例えば本当にその、教祖金光大神が言うておられる事、教えておられる事にしぼらなければです、人間が助からないのだと、本当にだから金光大神が、どう言う事を言うておられるか、どう言う事を教えておられるか、只おかげを頂くから有難い、私共の恩人金光大神、と言うだけでなくて、どう言う事を言うておられるから有難いのか、どう言う事を言うておられるから、教祖金光大神が偉大なのか、そこを私共が分からせてもらわなければ。
 今日の御理解の、神からも氏子からも両方からの恩人は、此の方金光大神と言う事に、強いものになってこない訳です。金光教の信心させて頂いておる者が、金光様のおかげで、日々立ち行きのおかげを頂いておる、金光様のおかげ、私共の大恩人だとこれは誰しもそこ迄は思うておる、そんなら金光大神の言われるどこをです、言わば神様迄が、神の恩人として、たゝえておられるのは、どこなのかと言う事をです、私はその五つの願いの一番最後であるところの、神願成就を願わなければおられない。
 神の願いが成就する事を、願わなければおられない、本当に私の心の上に、私の家庭の上に、私の周辺に、和賀心時代というものを広めてゆかなければおられない、というところ迄です。最後の一番の願い、私共が四つの願いというのは、私共の願いです、いうならば、一番最後のところの、神願成就の事になってくると、それは神様の願いが成就する事の為にです、健康でもありたいのであり、家庭が円満でもありたいのであり、いよいよ繁昌の大みかげも頂きたいのであり。
 その為には現在自分の頂いておる、天職とも思われる仕事そのものにです、本当にその事に仕えれる精神をもって、百姓をし商売をさせて貰えれる、いわゆる真実の御用が出来ますようにと言う事もです、いよいよそれを煎じ詰めて参りますと、神願成就の事の為に御用させて貰いたい、神願成就の事の為に、世界の本当の人間全てがです、助かる事の為に奉仕したいという程しの事がです、それは金光様じゃなくったって、キリスト様だってお釈迦様だって、天理教様だって、人が助かる事であるならば。
 ところがお釈迦さまも、キリスト様も言い得ておられない、こゝを頂かなければ、人間の本当の助かりはないんだと、言う所をです、教祖金光大神が教えておられるところを把握し、そこを頂かなければ 私共は和賀心時代を創るという、そのひとつの運動員にでもならしてもらおう、と言った様な気迫というものが、出来てこないと思うのです。皆さん合楽に御神縁を頂いておられる方達は皆んな、金光様のおかげでです今日がある、おかげを頂いておる。
 本当に私共の恩人は金光様だと、言ってるけれども、それじゃいかんというのですそれじゃ足りないとゆう。天地の親神様の願いであるところの、人間の言わば、総助かりといったような、大きなおかげを頂く為には、何々教やら何々宗では助からんと、金光大神が言われておるところに、もとづかなければ、そこで宗教革命と言った様な、烈しい言葉で私は申しますけれども、そんなら仏教を金光教にしてしまおう、キリスト教を金光教にしてしまおう、というのじゃないです。
 その仏教の教えそのものも素晴らしい、キリスト教の教えそのものも素晴らしい、けれどもこゝだけはひとつ、金光教の教祖が仰っておられるところを、取り入れなければ、本当の人間の助かりにはならないんだと、言う様な大変な事を仰っておられるのだ。そこが分からなければ、だから金光大神を大恩人というところ迄は、又天地の親神様も、そこを、教祖金光大神を通して、分からせようとなさっておられる訳なんです。そこんところを昨日、私は皆さんに力説させて頂いた。
 ついとうとう十二時までもお話をした事になったんですけれども。今度の教徒新聞の中に、こう言う様なところがございました。私はこゝを頂かせて頂き乍ら、本当に素晴らしい事だと思うて、今ちょっと、こう書いてみたんです、「安政五年十二月二十四日、こしかたの不幸をそれ以来の教祖金光大神の上に起きた、様々な難儀な問題、いわゆるそこを思い返されて。
 「天地金乃神様の御無礼を知らず、難渋致し今迄は本当に、七墓築く程しの、本当に難渋が続いた訳です、教祖の上に。それで例えば金神様のお障りではなかろうか、人間凡夫の事であるから、どこにお粗末、御無礼が有るやら分らんのである、だから平に平にお許しを頂き、お詫びをさせて頂いて、神様へ向うておられるところにです、天地金乃神様の御無礼を知らず、難渋致しと、その難渋の元がです、天地金の神様の、御無礼を知らんところにあったと、教えておられる訳です。
 神様が「今般天地金の神様、お知らせ下され有難し」と、神様によってヾす、天地金の神様の御教によって、生きるところの、感動にむせんでおられる、というところなんです。今迄ずうっと、様々な難儀が続いてきた、七墓を築く程しの難儀が続いてきた、その訳を知らずに、只人間凡夫の事で相分からず、どこにお粗末、御無礼があるやら分らんとしてです、お詫びなさってきた、あらゆる手だてもなさった。
 それでも尚且つ難渋な事が続いた、そこにです天地金の神様が、天地金の神様教えて下され有難しと言っておられます。こゝんところのです、例えば天地金の神様お知らせ下され、というところがです、他の宗旨宗派ではもう全然、お伝えがあってない、こゝを説いていないと言う事なんです。天地金の神様への御無礼を知らず、天地金の神様への、その御無礼と言う事がです、難渋の大きな元になっておったんだと言う事。
 と言うて私は先日からこゝに、久留米の統一教会という、これはまあキリスト教の別派のようなものでしょう。教主とゆう方が朝鮮人の方、早稲田大学を出て苦学されながら卒業して、それから一つの霊感と申しますかね触れられて、そこから統一教会という、いわゆる世界の宗教とゆうものを、全部統一してしまわなければならない、もうこれはキリストも、こゝは説き得てなかったそれで、自分がそこを分かった。
 それでこゝんところを皆んなに分からせてもろうて、学者ですから、原理と言っておられますが、難儀の原理というものを、沢山の書物にして、みんなに読んでもらいそれを分かってもろうて、いわゆる難儀から、解放されなければならない、それはその朝鮮人の、何とかいう人でなければ出来ない、だからあらゆる宗教を統一する。だから私がある事で、こゝへ見えられました先生方が三人、もう本当に素晴らしい先生達ばかりでした、品が良くて上品でそしておっとりとして、学問は皆んな大学出ばかり。
 それで私はその方達にそういう素晴らしい、なら私は金光教やめてからでも、一つあゝた方の信心が素晴らしいならば、あゝた達の宗教にならせて頂きたい、というてお話を聞かせてもろうた、所が結局は私のお話を聞いて下さる事になった。そして先生このお書物を読んで下さいというて、持って来てみえたですから、それがその人間の難儀の元と罪という元罪、こう言う事で人間が難儀をしておるんだという、本を置いて行かれた。それから私はそれを、前後真ん中パラパラではありますけれども読ませて頂いた。
 そして、もう読ませて頂いて、もう愈、私はこゝ二、三日、教祖生神金光大神の、素晴らしさと云うよりか偉大さをね、いよいよ痛感しておるのです。もうその本を読ませて頂き、他の宗教の話を聞かせて頂けば、頂く程です、教祖金光大神の信心の、素晴らしい事を、私は感じさせて頂いた。それから一週間後に、今度は又新たな、先生方を連れてから見えられた、それで今度は、私がお話を聞く番だと思っておったところ「丁度私が四時半に下りますから、下るその前でした。
 「先生あのお書物読んで頂いたでしょうか」と言う事であった。「読ませて頂きました、大変素晴らしい御本でしたよ」「どうお感じになられたでしょうか」といわれるから、私は、その事を申しました。もう私はね、あの本を読ませて頂いて、もういよいよ、教祖金光大神の素晴らしい事が、又改めて分からせて頂いた。と言う事なんです。私はそうゆう事からお話をして、色々、例えばあゝた方が、一人の方は全国をまわって、布教してまわっておられる。
 それで立派な洋服を着て、立派な風をしておられる、ですから大体、御本部の方から、給料が出るのですか、「いゝや先生、そんな事じゃ有りません、もう給料なんか全然出ません」「そんなら自費でやっておられるのですか」「それもありますけれども、自費でと言う事は続きません、だからボロ買いをします、それから、お花売りを致します」みんな若い世代の人達がです、もうそう言う事に一生懸命、
 花売りをされる、ボロ買いをする、教主とゆうその人自信が、早稲田大学時代、ボロ買いをしたり花売りをして、学費を稼いだというのですから、その教主の修行の後を、神習おうと言う事なんでしょう。だからその一事から言うてもです、金光教の信心の素晴らしい事を、私は指摘したんです。実はね、私共の頂いている、金光様とゆう御信心は、いわゆる教会が、全国津々浦々に有ります。
 アメリカ辺りにもあれば、言うならブラジル、ハワイ辺り迄も、教会がありますけれども、私共の信心というのはね、決してボロ買いも致しません、又花売っても歩きません。それこそ此方の道は、傘一本で開ける道なのですから、もう全国にどれだけあるか分からない、沢山の教会がです、皆んな、この傘一本で開いておるのですよ、資本があって開いておるのじゃないです。御本部から、援助があって開いておるのじゃないです。それは大きい教会もあれば、小さい教会もありますけれども。
 たけだけしそうに、それはそれなりに、道が開けておると言う事はです、そこに神様の働きを信じなければおられない、自分達が一生懸命花売りして、言うなら人に迷惑をかけてです、そして開いてゆかなければならない、これはいっちょあなた方も、その辺のところを、白紙になってね、私の言う事をようく聞いてみて下さいと、言うた事でした。金光様の先生で、外へ出て歩いて、そんなら食べられんごとなったら、他所ににまわって、お布施を頼んだり、参って来てくれという所は、どこもありません。
 それこそ畳半帖、こゝに座りぬかせて頂いて、願いをもって、願ってくる氏子を、もう絶対の信をもって、お取り次をさせてもろうて助かる、その助かる喜びが、教会の立ち行きとゆう事になって、いわゆる、傘一本で開ける道なのだと同時に、この本を読ませて頂くとです、人間の言わば難儀とゆうものが、兎に角キリスト教の、一番の創草です、始まりのところから、いうならば、原理を説いてある。
 アダム、イブの事から、天使が降臨して来て、その天使とアダムとの、交淫をした、いわゆる交流をした、それがサタンである、それが悪魔であったと、人間がそうゆう罪を犯しておる、その罪が元でヾす、人間の難儀とゆうものは、段々はびこってきたんだと、もうそれは、いやらしい程にといております、乱淫と言う事を。何の為に天地の親神様が、男を作られ、女を作られたか、これは金光教のいき方です、どうして引っこんだのと、でっぱったのを、神様は作られたか。
 それを金光教では、御の字をつけて、それを頂くのだ、お礼こそ申し上げねばならない事を、それを罪の元だという風に、説いてあるという、それは成程、それは嘘ではないでしょう。お互い判を作るでしょう、実印を作って、その判の相が悪かっても、運命が狂うと云われる位、家を作って、家相が悪いから繁昌しないと言う様な事が、一つの学問になっておる位。それはキリスト様と言う位の方だから、そういうところに人間の原罪、罪の元というものが、有るとしたならばです。
 これはもう、キリスト教だって仏教だってです、特に仏教の、例えば何と申しますか、日蓮が説かれたところの、法華経なんか、もう仏教の一番最高の、経典だと言われております。もうお釈迦さまの、一番円熟されてから説かれたのが、あの法華経なんです。その法華経の中にです、仏罰と言う事がある、仏罰を蒙る。五戒とか、十戒とゆうのが、仏教にもキリスト教にもあって、とても人間ではそうゆう事は、実行出来そうにも無いような事を、これを守らなければと、いうて守らせる。
 それが守れないと、それで罰を蒙るのだ、それが罪の元になるのだ、と、兎に角人間を、そうゆう事で罪の意識を持たせて、人間をがんじがらめに、苦しめる事の為の宗教のようである。お釈迦様が、その後に於いて説かれておる教とゆうもの、キリストが説いておられるところの、言行録とゆうものはです、それは素晴らしい天地の法則でもあり、真理でもあるけれども、そもそものところが間違っている。
 仏教なんかの、あの比叡山なんかに参りますとです、いわゆる女犯の罪を犯したとゆう事でもう、地獄道に落ちたとゆう坊主が、どの位おるか分からない。あゝこんな事ではと云うて、けれども人間の、いわゆる性とでも申しましょうか、それには負けて了う、そして、もう自分はつまらないのだと、地獄道に自ら落ちていく、そこんところを教祖様がです、例えば、一つの事柄であってもです難儀とも頂ければ、おかげとも頂ける、我心一つで、自分の身を救い助けよとも仰っておられる。
 おかげの有るも無きも、わが心なのだ。それを有り難い方へ有り難い方へと、頂いてゆけばです、有り難い事になるものを、自分の身を苦しめる方の為、苦しめる方へ頂いていく、とゆうようなものがです、金光教の教祖以外の、教祖宗祖という人は皆んな、そこを説いております。それは統一教の統一原理という本を、読ませて頂くとです、人間がそういう、例えば私共は、アダムとかイブとか、天使とかサタンというてもです、その事すらが信じられない。
 お釈迦さまの教えが分かれば、仏教の信仰をすればです、私共人間には、とても信用出来そうにもない事を、信用しなければです、その宗教が成り立たない。キリスト教でもそうです、キリストの処女受胎と言う事を信じなければ、キリスト教が成り立たないという程しに、難しい、しかも人間の罪というものは、こう言う事によって、出来ているんだというて、罪でもないものを罪としてです、人間をがんじがらめに、しばってゆくような宗教である。
 というてその後に説いておられる、天地の道理であり、又は天地の法則であり、真理であると言う事は、それは立派なもので有ると言う事。だから私はそう言う様にです、人間の難儀の元というのが、そんなら教祖様のこゝにもありますように、それ以前は七墓築く程しの難渋の事をです、あゝいうお粗末こういう御無礼、まあいうならば金神様のお障りで、こう言う様な事が続くのかもしれんとそれを信じておられた。
 それでも、そこをお詫びしていかれるうちに、信心が段々お進みになっていくに従って、天地金の神様が、お知らせを下され、難渋の元というのが分かられた。その難渋の元というのはです、天地金の神様への、御無礼であると言う事を悟られた、いわゆる、御理解三節に有る事なんです。神仏の宮寺、氏子の家宅、皆神の地所、其理知らず日柄方角ばかり見て、無礼致し、前々のめぐり合わせで難を受けおる。
 というめぐりと言う事は、こゝに初めて出てくる、これが難儀の元だと、これはどう言う事かというと、人間の思い違い、考え違いと言う事なんですよ、天地に対するところの御無礼と言う事は、言わばこゝのところなんだ。そこでそんならば、その天地の親神様の、過去の御無礼とゆうものは、詫びれば許してやりたいのが親心じゃ、と仰るのだから、そこのところをお詫びをされて、これからの新な天地に対する、神恩報謝の生活をさせて頂く、と言う事になったところからです。
 天地金乃神様お知らせを下され有難しと 天地金乃神様の御守護によって、生きる感動にむせんでおられる、というおかげになってくる。私は統一教の方に申しました、それはあゝた方がいわれるように、成程人間の難儀というものが、そこに有るかも知れんけれども、そのひと事ふた事じゃない、それは丁度玉ねぎの様なもんだ、玉ねぎの根には沢山の根がある、その沢山の根から玉ねぎが出来ておるように難儀というものは。
 そういう沢山な、名前が悪かった、家の家相が悪かった、判の相が悪かった、墓相が悪かった、まあ、いうならばよくいいましょうが、何代前の霊さんが縋ってくるけん病気をするとか。例えばそう言う事もあるかもしれないて、けれども、どういう霊さんがすがって来ておろうが、頼って来て病気をしておろうがです、天地の親神様の、御恩徳を分からせてもろうて、天地の親神様への御無礼が、無いようにさえしてゆけばです、一切が解けてくるのである、おかげになってくるのである。
 そこを、なお又教祖は、和賀心におかげはあると仰った。いうならば和賀心という、和らぎ賀ぶ心という心はです、いうならば、太陽のようなもの、沢山のお粗末、御無礼の元というものが有るのは、星のようなもの、太陽の前の星屑のようなもの。私が言う和賀心というものは、そのように素晴らしい事なんですよ、ですからあなた方も、そういう難しい勉強をする事も良いでしょうけれども、和賀心というものがです、一切の難儀の元を断つのであり、天地の親神様への、御無礼と言う事に気付いてです。
 天地に対するところの、御無礼にならない生活、同時に愈和賀心を育てていくという、いき方になればです、どのようなところから、難儀の原因は有るかも分らんけれども、そう言う事は問題ではない、太陽の前の星屑のように、消えてなくなるものだ。それはどうぞ私を見て下さい、私の方にも随分難儀が続いた、もう本当に、こげな難儀はなかろうという難儀もさせてもろうて、次々と兄弟が、亡くなると言った様な事があったけれども、天地の大恩をいよいよ分からせてもらい。
 和賀心を目指させて頂いて、自分の心の中に、和らぎ賀ぶ心が、段々育っていくに従って、その難儀の元というのが、消えたヾけでなくて、現在このように合楽で助かっておる、という事実があるじゃないか。しかもこれは全国の、いわゆる津々浦々にあるところの教会の、全てがそうなんだ、大は有る、小もある、けれどもです、人にすがって、花を売らなければいけないといった事で、立っておる教会は一軒もありません。
 その教会長の信心、その人の安心の程度、神様を信ずる程度、いうなら、その傘一本が矢張り、それはそれなりにたけだけしい、ごひれいとゆうものを、各教会で頂いておられるのだ。この辺のところを、ようと一つあゝた方の信心を一つ、白紙になって考えて下さらんですか、というて話したんです。その時に丁度乳飲み子に、乳首を与えましょうが、泣く時に与える、そうするとそれを ちゅうちゅうというて、乳は出らんけれども吸いますよ。ちょうどね、私がおしらせを頂いた事は、今の統一教とゆうのは、そういうものを吸わせておる。
 今の若い人達が、こうゆう混乱の状態の中にあってです、中にはです、これじゃいかんいかん何かというて、やっぱ求めてある人達が、沢山有るのです。そういう人達に、例えばそうゆう教学的に説いた、難儀の元といったようなものを、読ませる事によってです、それを本当と思ってしまう訳です。 そして、それを吸い出したらですね、やっぱやめられない、もうそれは だから血にも肉にもならないのですけれども、チュウチュウ云うて吸うておるようなものなんだ、と、あゝた方の宗教は。
 ですから、本当に神様の働きが有るものか、無いものかをです、私共信心によって、ハッキリ体験づけられるところの、いわゆる生きた神を信心せよと仰る、その生きた神様の働きをです、日々感じられるところの、云うならば、その感動にむせんで生活が出来る程しのものを、身につけてゆかなければならない。丁度もう、五時位迄話しました、ですから、これからは私もこゝを下るから、これからあゝた方の話を聞かせて頂きますから、と言ったけれども、もうコソコソとして帰られました。
 恐らく今度は又、もっと偉い先生を連れて見えるかも知れませんけれども、もう聞けば聞く程、読めば読む程、金光大神の信心の、例えば素晴らしさというか偉大さ、もう釈迦もキリストも説き得ていなかったところをです、教祖金光大神は、このように説いておられるのです。だから、そこが分からせて頂いた、例えば天地の道理とか、真理とか法則とかはです、それは釈迦もキリストも、誰でも説いてきたです。
 けれどもです、私共の難儀の全てが、和賀心一つにしぼられて、和賀心を目指させて頂いて、和賀心になってしまわなければ助からんのでなくて、そういう姿勢をいわゆる信心と言う事に、心が向いてしまう時に、金光教では和賀心を目指す以外にはない事になってくるのです。そこからはもうおかげを頂けるというのが、金光教の信心なんです。そういう素晴らしいことをです。
 天地金乃神様への御無礼が、難儀の元になっておるのであり、その天地金乃神様がです、難渋の元であった所の訳を教えて下さった。天地金乃神様、おしらせを下され有難しと言う事はです、今日私が皆さんに申しましたような事を、教祖金光大神に、おしらせ下さった訳なんです。いわゆる御理解三節なんかを、もう一辺読み直すといゝのです。そういう大変な事を、おしらせ下さった。
 そしてそこが分かられたところから、難渋の根が切れた、そこから金光大神が助かられたそこで、此方は人が助かる事が出来さえすればという、その焦点を天地金乃神様の大恩に置かれた、と言う事になるのですそういう素晴らしい事を分からして下さった、教えて下さったからこそ、金光大神は偉大であるのと同時にです、私共の恩人で有ると言う事が、いえるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。